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コラム
黄金色の白昼夢と闇の中の悪夢 岡本太郎(ライター)

見渡す限りの麦畑の黄金色。南イタリアの真夏の灼けるような陽射しの下で、横たわった巨人の背中のように大きく波打つ丘に沿って揺らぐ麦の穂の金色の光が視界を満たす、夢のような、ほとんどシュールレアリスティックな光景-それが『ぼくは怖くない』を生んだ直接の背景だ。イタリアで若手筆頭のベストセラー作家、ニコロ・アンマニーティにペンをとらせ、『エーゲ海の天使』のオスカー監督、ガブリエーレ・サルヴァトーレスがシネマスコープのスクリーンに映し出した、思わず目を疑いそうになるほど美しく暗示的な、エデンの園すら連想させるイメージである。

しかしもちろん、人間の世界に本当の楽園はない。心を奪う風景の下には暗い、希望の光を閉ざされた闇の世界があるに違いない-少なくとも人間はそんなふうに想像する。静まり返った水面下にはかならず、目を覆いたくなる秘密が隠されているはずなのだ。ヴィヴァルディの甘美なメロディラインや弦楽四重奏の牧歌的な響きが大気に漂って、ことさら非現実的なムードをあおり、楽園をわがもの顔で駆けまわる子どもたちの無邪気で残酷な遊びの中では、いつかは挫折をまぬがれ得ないミケーレのまっすぐな眼差しと正義感が浮かび上がる。でも、あまりにも美しすぎる風景の中で自由奔放に生きているかのような子どもたちの現実は、実は、周囲の世界からかけ離れ、どうしようもなく孤立した中でかろうじて成り立っているのだ。


だから、本来なら息苦しいほどの暑さのはずなのに、サルヴァトーレスの映画では温度にともなう湿度や匂いといった現実感が消し去られている。主人公のミケーレが体験した一番暑い夏の出来事は白昼夢のように、光と闇の対比と、その間に浮き上がる色彩によって描かれる。70年代初頭のミラノで立ち上げたデッレルフォ劇場で一種のロック・オペラを指揮し、反体制的な気分とエンタテイメント性の融合で人気を呼んだサルヴァトーレスは、必要以上に情緒的にも思索的にもリアリスティックにもならずに、イタリア南部の大地の、そのままで劇的な幻覚作用を作品にとりこんだ。

アクの強いキャストを組んで役者のテイストを最大限に生かす演出法は、デッレルフォ劇場時代からサルヴァトーレスの武器だが、その役者たちのほとんどがその後、引く手あまたの才能を開花させている。コメディからシリアスな役まで芸域の広い俳優を見抜く目利きのサルヴァトーレスは今回も、長年のつきあいで本国では人気者のディエゴ・アバタントゥオーノや、主人公ミケーレの父親というきわめて重要な役どころには名優、ディーノ・アッブレーシャを配し、子どもたちのひとりひとりも、顔と声だけで即座にキャラクターがわかる見事な配役だ。そして、それにもまして重要な鍵を握る麦畑の、黄金色の魔術は、イタロ・ペトリッチョーネの縦横無尽のしなやかなカメラワークが堪能させてくれる。
そうしてこの、何かしら根源的な意味を示唆する象徴的な視界とその色の中で、ひどく単純明快な命題が掲げられる-信じるのか、信じないのか(あるいは信じていいのか、信じるべきなのか)。

それは一見、『スタンド・バイ・ミー』や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のような、大人になる一歩手前の逡巡の物語のようでもある。たしかにここでも、大人になる(べき)ところで踏み停まっている時間帯が描かれている。しかしここにはもう、大人にならなければいけない、という前提はない。子どもはいつかは大人になるものだという概念は崩れ去っている。大人たちは裏切り者で、ミケーレにとって最大のヒーローだった父親はもはや、信じていいのかわからなくなってしまい(母親が決してそうならないのはなかなかイタリア的だ)、けれどもフィリッポとの、子ども同士の友情は貫き通される。
 

それはピーターパンのようなあくまでも寓話の中の話ではなく、たとえ金色の麦畑の魔術を借りておとぎ話のように語られていようと、その根底にある意識は強固で、もっと醒めているようだ。
この数十年で大人たちの犯した過失はあまりにも大きく、それを見てきた世代(おそらくアンマニーティ以降の世代)は、そもそも大人にならなければいけないというナンセンスを拒否してしまったかのようだ。最終的に心と身体の痛手を負わなければならなかったミケーレとフィリッポが手を差し延べあおうとする時、彼らには無意識のうちに、そして原作の小説と映画の脚本を手がけたアンマニーティにははっきりと、その決意があったのではないだろうか。