映画ライターが語る見所特集
「チャーリー・ジェイド」は、2005年にカナダで先行放送され、一部のSFファンの間で騒がれるようになった全20話のテレビシリーズである。
じっさいに見た人がまだ少ないせいで、世界的に噂だけが先行。早くもカルト作品のように扱われているが、アメリカで放送されれば、本格的に人気に火がつくだろう。
そんな「チャーリー・ジェイド」のDVDが日本で出る。なんと世界初のDVD化だ。日本のファンだけが一足先に、美しい絵と音で一気に見ることができるわけで、まずはそれだけでもうれしいじゃないか。
ところで、あなたがSFやホラーやファンタジーの海外テレビシリーズが好きだとして、2006年秋の現在、何を見ているだろうか?
「LOST」?「デッド・ゾーン」?「スターゲイト SG−1」?「ヤング・スーパーマン」?「スーパーナチュラル」?
これらの人気シリーズはすべて、ロサンゼルスかカナダのヴァンクーヴァーで製作されている。ヴァンクーヴァーはロサンゼルスよりも人件費が安く、
施設や人材も揃っているので、第二のハリウッドとして定着して久しい。つまり、世界的な水準でテレビシリーズを作ろうと思ったら、このどちらかの場所に出向くしかないわけだ。
だが「チャーリー・ジェイド」は、そんな“業界の常識”を変えてしまった。
南アフリカ在住の新進気鋭のプロデューサー、クリス・ローランドは、自分の国の現実に立脚して、それでいてエンタテインメントとして世界に通用するSFテレビシリーズを作ろうと考えた。
そのための方策として、ヴァンクーヴァーの製作会社と組んで共同で物語を考案し、一流のスタッフと俳優をカナダから招いて、地元ケープタウンでの撮影にこぎつけた。世界標準のノウハウをそっくり直輸入してしまったわけだ。
現代のケープタウンを舞台にしたエンタテインメント作品――というだけでもめずらしいのだが、「チャーリー・ジェイド」のいちばんのおもしろさは、
さらに、その現実の世界の両サイドに、それよりももっと悪い世界と、もっと良い世界を設定し、三つの世界を行き来する壮大な並行世界SFを作りあげたことにある。
「もっと悪い世界」は、多国籍企業がすべてを支配し、環境汚染によって人類が滅びかけている恐るべきディストピア社会。主人公のチャーリー・ジェイドはこの世界の出身である。
そして「もっと良い世界」は、ゆるやかな自治によって人々が平和に暮らしているカラフルで美しいユートピアだ。物語は、悪い世界の私立探偵だったチャーリー・ジェイドが、
原子力発電所の爆発に巻き込まれて、「われわれの世界」に飛ばされてくるところから始まる。
見知らぬ世界、見知らぬケープタウンの街並みに茫然とするチャーリーだったが、やがて友人ができ、生きていくためにこの町で探偵稼業を再開する。3つの世界を巻き込む巨大な隠謀に迫り、
もとの世界へと帰る道を探す一方で、依頼に応じてささやかな調査に乗り出す。その過程で、われわれの世界が直面するさまざまな問題が描かれ、また回想をはさむことで、チャーリー自身の過去も徐々に明かされていく。
チャーリーが格闘技や銃撃戦に優れている理由はすぐに判明するのだが、もうひとつ、探偵の仕事の武器になるのが、ハッカーとしての能力。テクノロジーの進んだ世界から来たチャーリーにとって、
この世界のコンピュータやネットワーク、セキュリティ装置などは容易にハッキングできるものだった――という設定もおもしろい。
この世界でチャーリーが遭遇するのは、人種対立、部族対立、エイズ、自爆テロ、誘拐、洗脳といった問題だが、
なかでももっとも強く描かれているのが、水資源の確保と環境汚染という難題。水と砂漠のイメージは番組全体にくりかえし登場し、アフリカの作品らしい特色になっている。
SFという形式に逃避するのではなく、リアルな問題をエンタテインメントの中に取り込み、SF設定の一部に生かしている。それによって、南アフリカで作ることの意味も、SFであることの意味も、発揮されているといえる。
また、SF設定のオリジナリティも高く評価できる。たしかに部分的には『ブレードランナー』や『マトリックス』によく似ているが、
逆にいえば、それらが部分でしかないところに、「チャーリー・ジェイド」の気宇壮大さ、図々しいまでの作品世界の大きさが現れている。
物語はこのあと、折り返し点を過ぎてから大きく二転三転し、予想もつかない結末に向かって突き進む。ストーリー展開にからむ主要キャラクターだけでも30人以上いて、まったく異なる3つの世界で並行して話が進む。
これほど複雑なテレビシリーズは、誰がどうやっても簡単には作れるものではないが、「チャーリー・ジェイド」のストーリーテリングは極めて安定したもの。さすがカナダから手練れのスタッフを集めただけのことはある。
視覚効果の充実からも製作費をふんだんにかけていることがよくわかるし、絵作りや演出の面で見劣りする部分は皆無といっていい。
さらにいえば、これも南アという立地ならではのものかもしれないが、銃撃・格闘などアクション場面の目立たないが確実な本物らしさ、拷問や洗脳の描写の甘さを排したリアリティは、ビターな大人向けの要素として、テレビ作品としてはめずらしい特長になっている。
また一方でロマンチックな要素が強いことも見逃せない。そもそも甘いマスクで腕っぷしの強い主人公チャーリーが女性にもてないわけがなく、出会う相手を端から不幸にしている感もあるのだが、彼が最終的に誰と結ばれるのか?という一点をとっても、なかなか先が読めずおもしろい。
第4話にささやかなヒントがあるので、気になる人はじっくり見ておくといいかもしれない。
最終話に「はじめに光ありき」というセリフがあることからもわかるように、「チャーリー・ジェイド」の物語は、ある意味で、ひとつの世界の始まりを描いた創世記である。そして同時に、チャーリー・ジェイドというひとりの人間の目覚めを描いた、極めて個人的な物語でもある。
極端に壮大な物語と、極端に内面的な物語のふたつが、重なり合って同時に成立しているところに、SFならではの醍醐味がある。
並行世界SFとして、伏線をはりめぐらし、複雑に構成されているため、最終話まで見たら、すぐに最初からもう一度見直したくなること必至。すべての謎がほんとうに解かれたのか? それともまだ話は続くのか? 気になるのは私だけではないだろう。