1965年2月6日チェコのジャーテツ生まれ。中等教育を終えた後、プラハ映画アカデミー(FAMU)のドキュメンタリー映画コースに入学、88年に卒業する。在学中に数多くの短編作品を監督し、"Space Odyssey II"(86)で注目される。これは雪深い山荘に住む引退した女性二人を主人公にしたドラマであり、アメリカの商業的なジャンルの映画へ皮肉めいたオマージュを捧げている。ヤンの才能は、荒廃した北部チェコスロバキアで繁殖している新種の生物を扱ったSFエコロジードキュメンタリー映画"ROPACI "(英題OIL GOBBLERS)(88)でさらに証明されることになる。この作品は、国内外の映画祭で好評を博し、89年にはこのカテゴリーの作品にとっての最高の賞である米国アカデミーが主催する学生アカデミー賞の最優秀外国語映画賞を受賞する。

 2年後、ヤン・スヴィエラークは長編デビュー作"OBECHNA SKOLA"(英題 THE ELEMENTARY SCHOOL)(91)を完成させる。 父親のズディニェク・スヴィエラークが脚本を書き、出演した。92年、この戦後チェコスロバキアを舞台としたハートウォーミングな時代劇は、アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた。その後「テレビが人々の生命力を吸い取り、彼らのエネルギーを枯渇させる」というアクションファンタジー、『アキュムレーター1』(94)を手掛ける。製作費は4000万コルナ以上と、当時のチェコ共和国としては最大規模だった。作品は94年のヴェネツィア国際映画祭でメディア賞、日本のゆうばり国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞した。チェコ国内でも大ヒットを記録し、チェコのアカデミー賞といわれるチェコ・ライオン賞観客賞を受賞した。
94年のロードムービー、"JIZDA"(英題 THE RIDE)も本国で大ヒットした。大学の同級生Martin Dostalと脚本を共同執筆したこの超低予算映画は公開時からほぼ1年間チェコ映画界ナンバーワンの興行成績をキープした。"JIZDA"は95年のカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭でクリスタル・グローブ賞を受賞した。

 96年の大ヒット作『コーリャ 愛のプラハ』はヤンが監督し、彼の父親ズディニェク・スヴィエラークが脚本を執筆、主演した作品で、96年のアカデミー外国語映画賞を受賞した。(チェコ共和国としては初。チェコスロバキア時代の67年にイジー・メンツェルの『運命を乗せた列車』(日本ではテレビ放送のみ)が受賞している。)また97年のゴールデングローブ賞外国語映画賞も受賞している。チェコ共和国本国での公開は1年間続き、チェコ・ライオン賞6部門で受賞、ビロード革命以来最大の興行的、批評家的成功を治めたチェコ映画となった。40カ国以上で劇場公開され、この公開規模は史上最大のものである。 96年東京国際映画祭でも最優秀作品賞と脚本賞を受賞。またヨーロピアン・フィルム・アワード(97年)、及び英国アカデミー賞の外国語作品部門にそれぞれノミネートされた。『ダーク・ブルー』は、ヤン・スヴィエラークが『コーリャ 愛のプラハ』に続き、プロデューサーのエリック・アブラハムと共同で製作した2本目の作品である。


 南アフリカ生まれ(現在はイギリス国籍)の元BBC南アフリカ特派員。イギリスのテレビ業界で20年以上のキャリアがあり、数多くのテレビシリーズやテレビ映画を製作、または製作総指揮にあたった。BBCの時事ドキュメンタリー番組"Panorama"のプロデューサーとして出発、トップクラスの独立系ドラマ制作会社Primetime Televisionに移り、1987年Portobelloを設立した。特にテレビドラマ大作への海外からの資金調達を得意とし、作品の中にはBBCのミニシリーズ「戦火燃ゆる時」(オリヴィア・マニングの小説、Balkan and Levant Trilogies原作。ケネス・ブラナー、エマ・トンプソンが共演)、トミー・リー・ジョーンズ主演の"Double Image"、BBCのプライムタイムのヒット探偵ものシリーズ"DALZIEL & PASCOE"などがある。 89年にイギリスの劇場公開ファミリー映画としてここ20年間最大のヒットを記録した作品『ダニー/ぼくらは世界一の名コンビ!』(出演:ジェレミー・アイアンズ)はイギリスを含む数々の国で公開され成功を収め、いくつもの賞に輝いた。

音楽・芸術方面では、ゲオルグ・ショルティ(指揮者)、マレイ・ペライア(指揮者)、キリ・テ・カナワ、ロイヤルバレエ団などのドキュメンタリー製作も手掛けている。 99年にはジェズ・バターワース監督作品"Birthday Girl"(主演ニコール・キッドマン、ベン・チャップリン)を製作する。(訳注:公開は2002年。途中で撮影が中断したので完成が大幅に遅れた) またティム・ロスの監督デビュー作『素肌の涙』(99)の製作も手掛ける。
『ダーク・ブルー』にて『コーリャ 愛のプラハ』に続き、ヤン・スヴィエラークと再びコンビを組んだ。


 1936年3月28日プラハ生まれ。映画、テレビ作品への脚本執筆のほかに劇作家、小説家、俳優でもあり、一時は本格的に教師を目指したこともあるという。教員養成コースを卒業、チェコ語と文学を専門とする彼は、妻とともに当時はチェコスロバキアであったZatacという地方で教員生活を始める。宿題の採点に追われ執筆に十分な時間をとることができず、自然短編作品を中心に書いていた。様々な雑誌への投稿や、若者向けの読み物、子供向けのおとぎ話やテレビ番組の台本などを書く。

 62年、チェコラジオ軍事サービスに加わり、共産主義時代のスポーツイベントで実況中継のコメンテーターを手掛けた。その頃、彼は友人のジャズミュージシャンらと、架空のライブスペーズ"蜘蛛の館"で行われる架空の"生放送ライブ"を行うという実験的な番組に取り組んだ。ちょうど忘れ去られていたチェコの英雄Jara Cimramanが復活した頃で、66年ズディニェク・スヴィエラークは仲間達と彼の名を冠した劇団を設立する。この劇団はプラハでも一番人気で、彼は今も座付き作者兼役者として積極的に参加している。

 役者としての映画デビューは、68年イジー・メンツェルの"CRIME IN THE MUSIC HALL"での弁護士役。続いて同じくメンツェル作品『つながれたヒバリ』に出演する。(この作品は上映禁止となったが20年後に解禁。日本でも公開された)彼のコメディにおける際だった才能は高く評価され、多くの作品で名脇役として活躍し、多くは脚本も手掛けた。主演としては疲れた歯科医Burdaを演じた悲喜劇"WHAT'S THE MATTER DOCTOR"(84)やとんでもなく魅惑的なエンジニアHnykを演じた"AS GOOD AS POISON"(85)などがある。しかし、彼の役者としてのキャリアで最も大きな成果は、いずれも息子ヤンが監督した"ELEMENTARY SCHOOL"、『アキュムレーター1』そして『コーリャ 愛のプラハ』である。 脚本家としてはこれまでに3つのオスカーノミネート作品の脚本を執筆した経歴を持つ。


 写真家の父とドキュメンタリーカメラマンの叔父と同じく、プラハ映画学院(Prague Film Adademy FAMU)を卒業後、74年Barranov映画スタジオでアシスタントカメラマンとなる。8年後"THE LAST TRAIN"で撮影監督デビューを飾る。

 同年Jiri Svobodaとのパートナーシップが始まり、"RENDEZVOUZ WITH SHADOWS", "THE DESTRUCTION OF THE BERNOF HOUSE"(83), "SCALP PLEASE!"(85), "CURSE OF THE HOUSE OF HAJN"(88)などの作品を共に手掛ける。スムットニーはその他の素晴らしい監督たちとも仕事をしている。カレル・カヒーニャ"THE GOOD LIGHT"やJaroslav Soukupの"DISCO-STORY" (87), "FRIEND FOR A RAINY DAY"(88), "WILD HEARTS"(89), "DISCO-STORY 2"(91), "VAMPIRE'S WEDDING"(93)など。 96年、スムットニーはヤン・スヴィエラークと組んで、『コーリャ愛のプラハ』を手がけ、Madridimagen撮影賞を受賞した。


 プラハにある世界的に有名な映画学校、FAMUで監督コースに在学したときに補助科目として編集を学んだ。65年に卒業後、チェコ軍スタジオに就職、74年からはKratky Film Prahaに所属する。その直後FAMUで編集と作曲の授業を持ち、94年には学部長に就任している。

 60年代、彼はドキュメンタリーやフィクションを多数手掛けるが、後にほとんどが政府によって禁止されてしまう。60年代の終わりにかけて、Ivan Baladaと製作した作品が彼の仕事中でも特に重要なものだと感じる。ともに"PANYCHIDA 36","REMEMBERING THREE MORNINGS IN A CZECH FOREST", "THE LEGEND OF A BURNING HEART"などを手掛けた。

 70年代、彼は数多くの外国作品に参加する。Laterna Magicaの番組(THE MAGIC CIRCUS, ODYSSEUS, MINOTAUR)や、大阪、ブリスベーン、ヴァンクーバー、シンガポールの万国博覧会におけるプロジェクトにも参加した。またチェコを代表するドキュメンタリー映画作家と数多くの仕事をしている。Ivan Vojrarの"IN THE GARDEN"(94), "ACTORS"(95)やPetr Vaclavの"MARIAN"(96)などで編集を手掛けた。彼はヤン・スヴィエラークの全作品の編集を行っている。


 ヤン・スヴィエラーク監督作のほとんどの音響を手掛けている。チェコ技術大学(Czech Institute of Technical Studies)で情報科学を学んだ後、68年よりサウンドデザイナーとして活動を開始する。Kartky Film Studioで数多くのドキュメンタリー作品に参加し、中でもそこの代表的な撮影監督、Jan Malirとの仕事を多く手掛ける。

 ヴェラ・ヒティロヴァの"PRAGUE, THE RESTLESS HEART"(87)、Helena Trestikovaの"SEARCHING FOR THE WAY"(88) で音響編集スーパーバイザーを担当した。また、Paul Klee監督や、撮影監督Erin Sandersのドキュメンタリー作品でも活躍している。またヴァンクーバー、ブリスベーン、大阪の万国博覧会でのプロジェクトでマルチメディア番組の企画等も行っている。ヴェラ・ヒティロヴァの"FAUN'S VERY LATE"(1983), "THE INHERITANCE"(1992)そして、Vit Olmerの"THE TANK BATTALION"(1991)のサウンドデザインを担当した。

 映画のほかには、飛行機に関心があり、軽飛行機を所有している。 彼の知識と経験はスヴィエラークの"THE RIDE"やReneの"WAR OF THE COLORS"、そして『コーリャ 愛のプラハ』のタイトルとクレジットシーンの撮影で役立っている。彼によれば、オーディオビジュアル作品にとって、音響はイメージの完成に決定権を持つ要素である。


 もともとはコントラバスとベースギタリストの奏者だった彼のもとに、『コーリャ 愛のプラハ』 の音楽を手掛けてから数多く映画音楽の作曲依頼が殺到した。プラハ芸術学校でコントラバスを学び(Franisek Postaと同窓), その後ジャズ、ロック、クラシックからポップミュージックまで様々な音楽スタイルに幅を広げる。 Milan Svoboda率いるプラハ・ビッグ・バンドや、メトロポリタン・ジャズ・バンドに参加し、ロックグループ"プラハ・チョイス"の共同設立者でもある。82年、グループから抜けた彼は、11年間Ladislav Staidl Orchestraに在籍する。この移籍によって、自前のレコーディングスタジオを持ち、自由に創造活動を行うことができるようになった。
作曲については、ジャズから始め、ポップミュージックを経て、ある特定のムードをはっきりと作り出すことができるヒット作家となる。 オペラ作詞家の妻、Marie Osvaldovaとともに、チェコの人気歌手Lucie Bilaに定期的に楽曲を提供している。舞台では、ダンスグループUNOが手がけるバレエ、"CHECK-MATE"や、La Fantasiaの"THE GARDEN OF DELIGHT"などがある。

 長編映画デビューは、Vit Olmerの"THE PAWNS SECOND MOVE"(83)。 その後、Olmerの作品に参加する。("COUPONS AND PEACE", "OUR LITTLE CZECH SONG 2", "NUIDITY FOR SALE"など) 他の作品には、"FAILED", "RULES OF CIRCLE"(いずれもMiroslav Balalajka監督) "ANIMALS IN THE CITY"(Vaclav Kristek監督), "OUTSIDER", "THE WAY SOUTH-WEST"(Zdenek Renc監督)、"REQUIEM FOR A DOLL", "WAR OF THE COLOURS"(Filip Renc監督) 、『アキュムレーター1』、『コーリャ愛のプラハ』。


原題:DARK BLUE WORLD/2001年度作品/チェコ・イギリス合作映画/上映時間:112分/カラー/シネマスコープ/ドルビーSRD
サントラ盤:ランブリング・レコーズ/ノベライズ:角川文庫刊/後援:チェコ共和国大使館
協力:キリンビール(株),株式会社ローソン,オリヂナル(株)
提供:スタジオジブリ日本テレビ/博報堂/ニューセレクト 配給:アルバトロス・フィルム