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【vol.6】“最前衛のアジア映画”「トロピカル・マラディ」
だいぶサボってしまったが、年末にあたり、気をとりなおして、筆もとりなおし、また書きつながせていただく。さしあたって、今年2004年をふりかえって、みたいなことでも書こう。
映画では、今年はおもしろい作品をたくさん見られたような気がするが、いちばん気になっている、というか見おわって「ああ、おもしろかった」で完結せず、これからこれがどうなっていくのかということに意識がどうしてもひきよせられるような、つまりは、いま生きてうごいている感じのいちばんある1本というのは、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『トロピカル・マラディ』だった。11月TOKYO
FILMeXで上映され、2年まえの前作『ブリスフリー・ユアーズ』につづけて2度目のグランプリを受賞した。
ウィーラセタクンの映画は、わかりにくい映画である。おもしろがれない人もすくなくないようだ(だから、劇場公開しようといううごきはまだ出てこない)。だが、ストーリーや意味など読みとることをあきらめて(だいたい、いろんな種類の映画に接してきている人は、あきらめがいい)感覚で映画とむかいあえば、これほど充実した、官能的とさえいえる映画体験はめずらしいと思い、胸がときめくはずである。
中島敦「山月記」の一節がエピグラフとして引用されている。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった」(角川文庫)というところ。
内容的にも関係がある。「山月記」は唐代の詩人が虎になってしまうはなしだが、『トロピカル・マラディ』もタイの密林の虎が関係してくる。特に後半は、人が虎になる民間伝承がかたられる。
前半は、密林までいかない里山のようなところで、ひとりの男の死体を何人かの兵隊のような制服を着た男たちがかたづけるシーンからはじまる。死体と記念写真をとったり、非情なあつかいをしているので、敵のゲリラか何かかと思うが、そうではなく、どうやら虎にやられた死体だったのではないかと、あとでだんだんわかってくる。
このときの兵隊のひとりと、ちかくの家のわかい男の子が、このときが縁で知りあい、だんだんしたしくなっていく。それが同性愛だということがわかるまで、すいぶん時間がかかる。つつましやかな交際で、ほほえましいほどだ。『ブリスフリー・ユアーズ』でもそうだったが、好きあっている人間どうしがいっしょにいる時間が特に、ゆっくりと濃密にながれる。そこに、からだのしんからあたたまるようなエロチシズムが生まれる。
熱帯的なゆるい時間のながれ、なのであるが、これが単に風土的・文化的なものではない、実験映画から出発した(長篇でさえも、依然として実験的だが)このわかい映画作家の固有の映画表現となっているところに、見ていてこんなにも胸がときめくのだと思う。これは、まちがいなく最前衛の新しいアジア映画だと言っていい。
これまで、西洋的な映画のつくりかたのゆきづまりの突破口としてアジア的なゆるさ、異質のものがたりかたのなかに何かが見つかればおもしろい、とぼくは思ってきたが、アジア的な悠長さと監督術のつたなさ、または技術的な低さとは、微妙に区別がつけにくいところもあった。
しかし、アピチャッポン・ウィーラセタクンの出現によって、その微妙なゾーンはせばめられそうである。アジア的な作家主義のひとつの尖鋭なモデルをしめしてくれたからである。この作家の存在が、アジアの、そして世界の映画をどう先導していくか、わくわくする。
1年をふりかえって、映画以外にもいろいろと書くつもりだったが、スペースがなくなったので、またつぎの機会に。。
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【プロフィール:宇田川
幸洋氏】
香港映画から日本のインディーズ系映画まで、多彩なジャンルに造詣の深い映画評論家。
主な著書に「ジョン・ウー/フィルム・メーカーズ12」(責任編集・キネマ旬報社)、「キン・フー武侠電影作法」(共著/草思社 )、「無限地帯 from Shirley
Temple to Shaolin Temple」(ワイズ出版)などがある。現在、東京ウォーカー、ロードショー、花椿に連載中。
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