COLUMN

クレイ兄弟の伝説
チンピラとギャングを分かつのは伝説だ。クレイ兄弟はそのことを最初から知っていた。クレイ兄弟はマフィアにあこがれ、マフィアになろうとした。だからクレイ兄弟はイギリス最大のギャングと呼ばれるようになったのである。彼らのなしたことよりも、その作りあげた伝説ははるかに大きい。
十代のころから、ロナルド・クレイはマフィアになりたかった。新聞から事件記事をスクラップしていたロナルド・クレイのあこがれは禁酒法時代のアメリカのギャングだった。ロナルドはアル・カポネになりたかったのだ。恐れられ、尊敬されるタフガイ。彼は何より、人々から畏敬のまなざしを向けられたいと願っていた。
クレイ兄弟にとって、ギャングであるというのは力を見せびらかすことだった。有名人との交流を誇示し、警察を嘲笑したのだ。そもそもマフィアにとって、暴力は隠してこそ意味がある。伝家の宝刀は抜いてはならないのであり、暴力をふるえばすぐに警察が飛んでくる。だが、クレイ兄弟は進んで人前で暴力をふるった。他人に見せてなければ伝説にはならない。だからロナルドは積極的に暴力をふるった。より理性的だったレジナルドの商売を邪魔してまでも、ロナルドは無駄な出入りを渇望した。それをロナルドの精神異常のあらわれだとする人もいる。だが実利ではなく誇大妄想に生きたクレイ兄弟にとって、暴力の誇示は必然だった。
伝説のクライマックスは1966年3月9日に起きたロナルドによるジョージ・コーネル射殺事件である。かねてよりサウス・ロンドンを根拠地とするリチャードソン一味とクレイ兄弟は縄張りをめぐって争っていた。前日、リチャードソン一味は別の出入りで、ギャングを一人殺していた。これはクレイ兄弟とはまったく無関係なできごとだ。この事件のせいで、リチャードソン一味のおもだったメンバーは警察に逮捕され、ギャングは壊滅状態に陥った。クレイ兄弟は闘わずして易々と勝利をおさめたのである。だが、それではロナルドのエゴは満たされなかった。ロナルドは力を見せずにはいられなかったのだ。リチャードソンの子分コーネルから「デブ男」と陰口をたたかれたことを忘れなかったロナルドは、わざわざコーネルの居場所を調べあげ、パブに乗り込み、衆人環視のもとでコーネルを射殺した。目撃者は誰一人証言台に立とうとしなかったので、ロナルドは罪に問われなかった。ロナルドがコーネルを射殺したパブ〈ブラインド・ベガー〉は観光スポットとなり、射殺場所には印がつけられている。
それはまったく無意味な殺しだった。そもそもロナルドがコーネルを襲撃した時点で、リチャードソン一味は壊滅している。どうしてもコーネルを始末したいのなら、喜んで実行する手下はいくらもいたはずだ。だが、ロナルドは自分の手で殺しを実行せずにはいられなかった。あまりにも愚かしい。だが、それこそがクレイ兄弟の伝説である。
クレイ兄弟の全盛期はそう長いものではない。1968年に逮捕されるまで、およそ四、五年というところだろうか。イギリスの暗黒街を支配したマフィアと呼べるほどではないのである。彼らの伝説はもっぱらメディアに登場すること、そして警察に挑戦することで築かれた。
若くハンサムで暴力の雰囲気をまとっているクレイ兄弟はメディアの寵児でもあった。たびたびテレビでインタビューされ、デイヴィッド・ベイリーに写真を撮られた。メディアに出ることで、彼らの虚像はさらにふくらんだ。それは虚像なのだが、クレイ兄弟にとってはもっとも大事なものであった。クレイ兄弟は警察にも堂々と挑戦した。ほとんど挑発していたとも言える。兄弟は二人を追っていた刑事ニッパー・リードを敵視し、トリックにかけて一緒に談笑しているかに見える写真を撮影した。ロナルドはペットのニシキヘビに「ニッパー・リード」という名前をつけた。結果としてはそれは愚かな行為だった。リードは侮辱に甘んじることなく、最終的にはクレイ兄弟を逮捕することになるからだ。だが、クレイ兄弟にとってはイメージこそが重要だったのであり、そんな損得勘定はもとより存在しなかった。
ロナルドとレジナルド、双子のいずれが主導権を持っていたのかはさだかではない。冷静で商売の才覚もあったレジナルドが、暴力的で衝動的だったロナルドに足を引っ張られた、という見方は根強い。ジョン・ピアースンの『ザ・クレイズ 冷血の絆』などでも踏襲されている視点だ。だが、双子の夢がどこにあったのかを考えると、そうした見方は一方的すぎるかもしれない。ある意味で、レジナルドはロナルドに暴れてもらうことで、自分の夢想を実現していた。アメリカン・マフィアの夢を見ていたクレイ兄弟にとって、ロナルドの暴走は二人の夢の実現だったのだ。二人の共生関係で実現した夢は短くはかなかった。だが、兄弟にとって、それは十分すぎるくらい濃密なものだったろう。
柳下毅一郎(殺人研究家)