あの日のように抱きしめて

8月15日(土)、Bunkamuraル・シネマ他にて全国順次ロードショー!

ただ知りたかった。あの時、夫は私を愛していたのか。それとも、ナチスに寝返り裏切ったのかを―。

1945年ベルリン。顔に傷を負いながらも強制収容所から生還した妻と、変貌した妻に気づかない夫。再会により炙り出される心の傷、そして夫婦の愛の行方をサスペンスフルに描いた優しくも切ない衝撃作!

インタビュー

インタビュー…クリスティアン・ペッツォルト、ニーナ・ホス、ロナルト・ツェアフェルト

クリスティアン・ペッツォルト監督(以下 監督): Filmkritik誌が、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』の特集をした際に、ハルン・ファロッキが、「入れ替わった女たち(Switched women)」という記事を書いていた。そのエッセーの中で、彼はユベール・モンティエの『帰らざる肉体(Le retour des cendres)』という小説を引き合いに出していた。この映画の原作となった本のことだ。その後、僕はハルン・ファロッキに会って、時間をかけてこの本について話し合った。この手のストーリー――いわば『めまい』と強制収容所の生還ストーリーをブレンドしたようなもの――は、フランスでしか語ることができないのか、そう僕たちは自問した。そしてドイツの戦後映画について考察した――なぜドイツでは、コメディーやジャンル・フィルムを作られないのか。僕たちは国家社会主義(ナチズム)によって作り出された深淵へと繰り返し繰り返し放り込まれてしまうんだ。

数年後、僕は『東ベルリンから来た女』の制作を始めた。ニーナ・ホスとロナルト・ツェアフェルトが演じる恋人たちを見ている内に、彼らを通してストーリーを語ることができるのでは、と考え始めた。それでもう一度試してみることにしたんだ。このストーリーを何とかしてドイツで語ることは可能なのか――もしできるとしたら、どうやって?と。

ニーナ・ホス:キャラクターについて詳細なリサーチを行っている内に、あの時代の“その後”を当事者が語った記録がいかに稀少であるかに気がついたの。ネリーは強制収容所から出てくる。彼女は生き残って、救われたわ。まだそのトラウマの渦中にあるとき、それはどんな気持ちがするものなのか?それはいったいどんな状況なのか?自身の体験について口を開くことすらできないのでは?私にとっては、それが決定的なポイントだった。私の演じるキャラクターは、いかなる状況にあって、どれほど狂気に近い場所にいるのか?収容所では、人々は“非人間化”されたわ。彼らは、人々を人間たらしめるあらゆるものを破壊しようとしたの。その体験の後に、人々は過去に自らを人間として定義づけていたものと、いかにして再び繋がることができるのか?

なぜネリーはジョニーという固定観念にしがみつくのか、その理由が私にはよく理解できるようになったわ。もし彼が彼女を見分けることができたら、彼女は再び生を取り戻すの。私は「なぜ彼は彼女を見分けることができないのか?」とは問わなかった。結局のところ、彼女も自分自身を見分けることができないのだから。芯まで徹底的に破壊されてしまうと、人は自らを認識できなくなる。私はその事実を理解する必要があったわ。それが最も大きなチャレンジだった。これは、バラバラになってしまった自分を繋ぎ合わせようとする1人の人間の話なのだと理解することね。彼女は遠くから帰ってきた。そして手の届くあらゆるものを掴んで理解しようとする――自分はいったい何者なのか、これから何者になることができるのか。彼女はレネに言うわ。「ジョニーに会って私はネリーに戻ることができたの。時々自分に激しい嫉妬を覚えるわ――過去の自分がいかに幸福であったかにね」彼女は自らについて三人称で語る。まるで誰か他の人間の話をするように。それでも共感することはできる――彼女はまさにその人物だったのだから。それはどこに行ってしまったの?

監督:レネにジョニーとの関係を語るとき、ネリーはこう言う。「まるで初めて知り合った恋人同士みたいなの」そしてジョニーの防衛機制が崩れる時もある。「僕の妻は死んだ。妻はこの女ではない。これは僕が組み立てている模型に過ぎないんだ」。しかしネリーは、動作や記憶を通して、彼が抑圧している部分に触れることに成功する。彼女は彼が抑圧している愛を、現在へと呼び戻そうと試みる。そしてそこからあらゆる緊張が発生するんだ。彼はこの愛が引きずり出されるのを阻止しようとし、彼女はそれを回復しようとする。地下室のアパートでは、彼らの力関係は時折逆転するんだよ。相手に導かれ、惹かれているのはネリーだけではない。彼女もまた状況を支配し始める。奇妙な意味合いにおいて、彼らの関係はまるで恋人同士のようなんだ。

ロナルト:僕にとって最も刺激的なシーンは、ジョニーが帰ってきて、初めて髪を染め、赤いドレスを着て彼の前に立つネリーを目にする場面だ。その光景に、彼は平手打ちをくらったような衝撃を受ける。突然部屋を支配する力に気がつくんだ。それは彼に作用している。彼は彼女に襲いかかる。「なぜ顔にそんなものを塗った? やり過ぎだ、ぜんぜん合っていない……」彼は彼女を認識することを自らに禁じる。「ネリーであるはずがない!夢に違いない。彼女は僕の前に立っている。何もかもがぴったりとくる。筆跡まで……だがそんなはずはない!」彼は無理やり否定するが、直観はまったく別のことを告げているんだ。

監督:問題は映画の結末をどうするかだった。映画を終わらせる唯一の方法は、ネリーが決断を下すことだ――でもその決断は、ストーリーに結論をもたらさない。すべてが未解決のまま、我々は問いと共に後に残されるんだ。ネリーに気づかない唯一の人物がジョニーだ。それからネリー自身。彼女は何かを失ってしまったし、彼は何かを裏切ってしまった。編集をしている間、僕はこのシーンには古典的恋愛悲劇のあらゆる要素が含まれていると思った。自殺、情愛の殺人、和解……しかしネリーは違う決断を下す。全く彼女自身の発案であり、我々の予期せぬものだ。それは脚本には明示されていないものだった。いや、されていたのかもしれない。いずれにせよ、撮ってみて初めて、本当に理解できたんだよ。