アメリカ人が書いた『アメリカの反知性主義』という本がある。『アンティ・インテレクチュアリズム・イン・アメリカン・ライフ』だ。リチャード・ホーフスタッター著・1962年刊行、田村哲夫氏の訳がある。(みすず書房2002年)。「反知性主義」の語は1950年代に反省をこめて、米国に広まったとこの本にあるが、それ以前から米国の知識人は「知性(マインド)」を軽んじる国民の風潮に落胆し、打ちのめされていた」という。

 戦前の日本では、映画やミッキー・マウスのマンガなど、アメリカ物は流行っていたが、「エロ・グロ・ナンセンス」ばかり、という批判が強くあった。戦後派アメリカ流行り一点張りで、「民主主義」以外は「エロ・グロ・ナンセンス」だからこそいい、それでなくちゃ、という感じになった。

 知性主義という点では、アメリカの知識人から見ると、ヨーロッパ、とくにフランスには根づいている、という感じだろう。
 ところが、この新しいアメリカ映画『セックス調査団』を見て、「えっ、アメリカ社会も戦前のフランス並みに知的になったな!」と感じた。

 若い男たちが、セックスとは何かを論じあう。若い女性たちが記録係として同席させるのが変わっているけれど、「こりゃブルトンだね」と思った。1920年代から10年以上にわたってフランスの知的風土をリードし、全世界的名声を博した「超現実主義」シュールレアリズムの主導者、アンドレ・ブルトン(1896〜1966)だ。

 第一次及び第二次「文学」という雑誌が運動の中心だったが、1919年創刊のころはブルトンはまだ22歳だ。のちに決裂するもう一人の大物ルイ・アラゴン(1897〜1982)は一つ年下だ。皆若い。ブルトンは、アルプス越えの進撃のころの若い将軍ナポレオンみたいに、若いが最年長のリーダーだ。

 ぼく自身20代でパリ大学留学中、1960年代、現代文学専門図書館に通って、シュールレアリズムの雑誌を読んだ。コピー機のない時代なので、ノートを取りながら。

 そういう記事の中に、ブルトンたちシュールレアリストが、セックスについて論じあっている座談会の連載があった。自分の性体験を語るのに照れて誤魔化そうとする者がいると、ブルトンがガーンと批判する。逆にふざけてオーバーなことを言って受けを狙う奴もガーンとやっつける。真剣だ。「こういうときに女にこんな風な姿勢を取らせる」というような話のときに、線画で書いた図がついていた。それを絵の下手なぼくがノートに写しておいたが、残念ながらそのノートはどこにあるか、見つからない。研究室の個室にあったけれど、本年定年退職でとにかく家に引き取った荷物の中。実はこのセックス談義をまとめた翻訳書もあって、持っていたが、これも見当たらないのだ。

 けれど、今日では、女性週刊誌で、若い女性たちがオナニー経験まで語るセックス談義はざらだ。ブルトンたちの語りは、全くすこぶる真面目なのが特徴だ。

 その点、アラン・ルドルフ監督・脚本・制作の映画『セックス調査団』の青年たちも真面目である。セックスなんてやるのは当たり前、という顔をしていない。知的だ。

 そして導入部分で、若い女性たちが、速記者としての仕事として、このグループに接触して行く、という設定が面白い。熱烈にセックス相手のいる女性、そういうことのない女性が、「この人たち、何なの?」という感覚で調査団とつきあい始める。スリルとミステリーのムードが漂う。中心となる若い科学者エドガーが美しい夢魔につきまとわれているのもスリルだ。

 映画という集団作業で、こういう内容が扱えるというのは、アメリカの社会も知的になったなあ、とつくづく思ったが、資料を見ると、原作はアンドレ・ブルトン編「性に関する探究」とある。なるほど、この本がまさしくぼくがパリで読み、失くしてしまったものだったのだ。まさにブルトンだ。そして時代設定も1929年と、超現実主義流行時代である。そしてその場所の設定は、米国でも一番「知的」というムードに結びつきやすい「東部ニューイングランド」だ。この地方育ちで、英国紳士のキングスイングリッシュに近いような発音をするケネディー大統領は、その点で人気がある一面、民衆的には違和感もあったらしい。結局殺された。

 1920年代、東部ニューイングランド、と、これだけ限定をつけたにせよ、体にうずく性の問題を頭で考えて、言葉で他者と語り合う、という知的作業を映画にできたのは、アメリカ文明も成長した。よかったね、と言ってあげたい。